脳梗塞で倒れ「意識の回復は見込めない」と医師から言われた45才の妻が家に戻るまでの闘病記【7】

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まるすけ(@marusukepapa)です。

2025年2月18日(火)の夜、一緒にテレビを観ていた妻が突然目の前で意識を失いました。

すぐに救急車で搬送され緊急手術。

術後、医師から告げられた病名は
『脳梗塞』
でした。

「45才の若さで…?」
「ウソだろ…?」

『脳底動脈先端閉塞症(のうていどうみゃくせんたんへいそくしょう)』
という脳梗塞全体の中でも1%という稀な場所での発症との事。
ネットの情報も極端に少なく、内容も悲観的なものばかり…。
頭がおかしくなりそうな日々でした。

医師からは
「意識の回復は見込めないでしょう」
とまで言われましたが、奇跡的に今は後遺症を残しながらも在宅復帰して生活しています。

そんな、情報の少ない脳底動脈先端閉塞症。

「今後もし同じような状況になった方が、少しでも参考にしてくれたら…」

そんな想いから、数回にわたり私が書き留めておいた記録を元に妻の闘病記を公開していきたいと思います。

※文章は記録の文体のまま記していきます。

脳梗塞で倒れ「意識の回復は見込めない」と医師から言われた45才の妻が家に戻るまでの闘病記【6】はこちら

3/19(水)

仕事後に面会。

「意思の疎通ができている」
と確信した翌日だったが、やはり直接会うまでは不安だった。

「今日はどうだろう」
少し緊張しながら病室のカーテンを開ける。

声かけに少し眉毛を動かして反応するものの覚醒はしない。

「気持ちで負けたらダメだ…!」
と、めげずに今日も面会時間いっぱいまで声をかけ続けて退室した。

3/20(木)

仕事後に面会。

通い慣れた病院内の通路、面会の受付、エレベーター。
毎日、病室に向かいながら
「さぁ今日はどうだ?」
と、期待と不安が入り混じった同じ気持ちで歩く。

声かけに何か声を出して反応するものの言葉は聞き取れず。

「なにか一生懸命パパに伝えようとしてるんだね」
と声をかけると頷いていた。

本当はどうなのかは不明だが、聞こえてると信じるしかない。

3/21(金)

仕事後に面会。

病室に入ると眉間にしわを寄せてやや苦しそうな表情。

衣服がはだけていたので直し、体位も整える。

「暑い?」
「寒い?」
と聞くが反応は鈍い。

鼻水が出ていたのでティッシュを使って拭き取り。

「両手にミトンつけてるし、鼻に管も入ってるから苦しいよね」
と声をかけると左手を顔の近くまで持ってきていた。

「邪魔だから取りたいんだろうな」
と思ったが
「管が抜けたら大変だから、みい、ガマンガマン」
と伝え、時間ギリギリまで話しかけ続けた。

病室を出てから駐車場へ向かう道。

反応が良い時は晴れ晴れとした気持ち。
悪い時は落ち込んだ気持ちで歩く。

「いつまで続くか分からないけど、自分だけは絶対に気持ちで負けない」
と言い聞かして車に向かった。

3/22(土)

13:00に息子を連れて面会。

声かけに反応あり。
言葉は聞き取れないものの、よく喋って体もよく動かしていた。

何となく言葉が聞き取れるようになって、第一声は

「待ってたよ」

だった。

息子の前だったので冷静を装い
「おー良かった良かった!待っててくれたのね」
と声をかけると小刻みに首を動かして頷く。

ほかにも
「病院イヤだ」
「隣のおばさんイヤだ」
といった声が聞かれた。

嬉しくなり、帰宅後に義父や友人のTにも報告。
一緒に喜び合った。

3/23(日)

15:00に義父、義兄夫婦と待ち合わせ。
3人は先に病室に入っていたため遅れて合流。

声かけに反応あり。

義兄夫婦から
「やっぱり反応が全然違うね」
「さっきまではそんなに動かなかったもん」
と言われる。

内心、すごく嬉しくなった。

「お義兄さんたちが少しでも安心してくれたなら私も嬉しいです」
と伝えた。

その後もいつもと変わらない、明るいトーンで声をかけ続けた。

こうやって明るい雰囲気を作るのには明確な理由があった。

「自分がキーパーソンである事は間違いない」
「だから自分の関わり方しだいで周りの空気は大きく変わってしまう」
「自分以外の人がいる時は絶対に明るい雰囲気で接するようにする」

これは入院当初から決めていた事だった。

3/24(月)

仕事後に面会。

衣類は乱れて暑そうにしていた。
表情から疲れている感じが見て取れた。

苦しそうな体勢だったため体位変換して整える。

「いつからこの体勢だったんだろう…」
と病院に対して不信感を抱く。

「みい、きっともうすぐ転院だからね。それまでの辛抱だよ」
と声をかけて退室した。

3/25(火)

仕事中、ソーシャルワーカーから電話があり、3/31(月)に転院が決定。

第一希望の「横浜なみきリハビリテーション病院」に決まったとの事。

ソーシャルワーカーによると第二希望の「衣笠病院」にも依頼をかけたが
『その状態だとウチでは受け入れは難しいし、ベッドもしばらく満床』
と断られたらしい。
反面、なみきは快く手を挙げてくれたというから感謝しかない。

友人の看護師TにもLINEで報告。

ちょうど妻の面会に行ってくれた後だったらしく、
「言葉が聞き取れるようになったよ」
と報告があった。

帰り際にTが
「このあとは、仕事を終えたパパ殿が面会に来るだろうからよろしく言っといてね」
と伝えると
「言っとく言っとく言っとく」
といった返事があり笑顔も見られたとの事だった。

ワクワクしながら面会に行く。

Tとの面会で疲れたのか、ほとんど反応がなく眠って過ごしていた。
とはいえ、Tから今日の報告を受けていたので気持ちはだいぶラクだった。

頭を撫で、
「面会でたくさん話したから疲れちゃったかな?」
「みい、転院が決まったよ」
「来週の月曜日、横浜にある、なみきリハビリテーション病院に行けるからね」
「パパの職場から近いよ」
「もちろんパパもお休みにして一緒に付き添うから」
「あと1週間の辛抱だよ」
「よく頑張ったね」
と、ゆっくりと話しかけて退室した。

3/26(水)

仕事後に面会。

あまり反応がなく、眉間にしわを寄せている時間が長かった。

「暑い?」
「パパの声聞こえる?」
と聞いても表情を変えず反応なし。

めげずに時間いっぱい話しかけ続けて退室した。

3/27(木)

仕事後に面会に行くが、今日もほとんど反応がない。

ここまで反応が見られない事はなかったが、そんな日が2日も続いて急にひどく落ち込んでしまった。
転院を目の前に、体が急変して脳機能が悪くなっちゃったのかと不安になる。

「なんでみいがこんな辛い思いをしなくちゃいけないんだ」
「変わってあげられなくてごめん」

と病室で泣き崩れてしまった。

(近日公開予定)脳梗塞で倒れ「意識の回復は見込めない」と医師から言われた45才の妻が家に戻るまでの闘病記【8】へ続く

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